cerisier

桜の季節。パリでもたまに街を歩いていると遭遇することがある。

わたしはこれまでの人生で、桜の花を美しいと感じたことがない。綺麗だとも、雅だとも、まったく思えない。理由はわからない。怖いという言葉が最もしっくりくるような気がするが、それもあまり正確ではないように思う。わたしはたいがいの狂っているものも過剰なものもおどろおどろしいものにもわりと耐性が強いという自覚があるのだけれど、桜の花が咲き乱れているさまは、凶暴というのか、禍々しいというのか、他に類のない嫌悪を感じて、ひたすら生理的に忌避してしまう。満開の時期が終わり、葉の緑に侵食され始めるのを見ると安心する。あと、夜に見る桜なら、満開であってもなぜか大丈夫で、むしろ心が落ち着くとも感じる。

ただ、抽象的なイメージとしての桜の美しさは理解ができる。桜の木の下に死体が埋まっているのはロマンティックだと思うし(その言葉を知って以来、桜の淡いピンクは死体の腐った血を吸った色だというわたし好みのファンタジーで克服してみようと思ったがだめだった)、桜味のお菓子やスタバの桜ラテも美味しくいただけるし、なんなら桜の時期にお花見が開かれて声をかけてもらったときにはしばしば参加して、なるべくまじまじと直視しないようにして想像上の桜を楽しむ。あくまで概念としての桜なら問題がなく、慈しむべき日本の花であるとも思う。けど、満開に咲き誇った桜の花、それ自体を、ある程度の近さから直接目にしてしまうと、あるいは写真でも近くから撮られたものだと、途端に無理になる。

密集して咲く花すべてが苦手というわけではなく、本当に桜に限ってのことなので、その見た目やら造形に、何かしら絶妙に私の苦手なところを突くものがあるのだろう。

ただ、本当に幼い頃は、そうではなかった。正確には覚えていないが、高校の頃、あるいは大学生になってからのような気もする。これは年齢的な問題なのだろうかと思い、毎年、今年は克服できただろうかと思って確認してみて、やはりだめだった、となり、どこかしらにそのことを記録している。今年はここに、やはり国を変えても無理であったということを書き留めておく。 

*

 おまえ、この爛漫と咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像してみるがいい。何が俺をそんなに不安にしていたかがおまえには納得がいくだろう。

 馬のような屍体、犬猫のような屍体、そして人間のような屍体、屍体はみな腐爛して蛆が湧き、堪たまらなく臭い。それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている。桜の根は貪婪な蛸のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚めて、その液体を吸っている。

 何があんな花弁を作り、何があんな蕊しべを作っているのか、俺は毛根の吸いあげる水晶のような液が、静かな行列を作って、維管束のなかを夢のようにあがってゆくのが見えるようだ。

梶井基次郎「桜の樹の下には」(1928)

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