• 4月初旬に、2泊3日でダブリンへ。郊外や他の街には足を伸ばさずダブリンで3日間を過ごした。歴史関係だとトリニティ・カレッジ(Trinity College)、ダブリン城(Dublin Castle)、聖パトリック大聖堂(St Patrick’s Cathedral)、クライスト・チャーチ大聖堂(Christ Church Cathedral)。ミュージアム系はリトル・ミュージアム(The Little Museum of Dublin)、アイルランド文学館(Museum of Literature Ireland)、アイルランド国立美術館(National Gallery of Ireland)。酒関係では、ギネス・ストアハウス(Guiness Storehouse)とアイリッシュ・ウィスキー博物館(Irish Whiskey Museum)。

    イギリスとの関係をめぐる複雑な歴史は、ダブリン城や教会をはじめとして各所にあらわれていると感じられた。欧州の一員であることを強く主張しているようにも。

    ジョナサン・スウィフトにオスカー・ワイルド、ジェイムズ・ジョイスと、数々の文豪の出身地であり、観光地としても見るべきところが複数ある。この街がいかにしてかれらの文学の形成に影響を及ぼしたのだろう。

    最高だったのはギネスビール。ギネス・ストアハウスはなんだかアトラクションのようであったし、最後に展望台から街を眺めながら飲むビールは素晴らしい。街のパブでもほとんどの人が飲んでいるビールがギネスだった。こんなビールが母国の味だというのはとても素敵なことだ。

  • “Drôle” Saison1

    Netflixのドラマ”Drôle”のシーズン1を見た。邦題は『スタンディング・アップ!』

    脚本が”Dix pour cent”(英語だと”Call my agent“、日本語は『エージェント物語』 )と同じFanny Herrero、という情報を知ったら見ないという選択肢がなかったのだけれど、あっという間に好きになった。

    メトロで見つけたポスター。Dix pour centと同様にどのキャラクターも絶妙に魅力的なのだけれど、Nezir(ポスター左)がとにかくチャーミング。”Uberの王子様(le prince Uber)”というカテゴライズ、ぴったりだと思う。

  • cerisier

    桜の季節。パリでもたまに街を歩いていると遭遇することがある。

    わたしはこれまでの人生で、桜の花を美しいと感じたことがない。綺麗だとも、雅だとも、まったく思えない。理由はわからない。怖いという言葉が最もしっくりくるような気がするが、それもあまり正確ではないように思う。わたしはたいがいの狂っているものも過剰なものもおどろおどろしいものにもわりと耐性が強いという自覚があるのだけれど、桜の花が咲き乱れているさまは、凶暴というのか、禍々しいというのか、他に類のない嫌悪を感じて、ひたすら生理的に忌避してしまう。満開の時期が終わり、葉の緑に侵食され始めるのを見ると安心する。あと、夜に見る桜なら、満開であってもなぜか大丈夫で、むしろ心が落ち着くとも感じる。

    ただ、抽象的なイメージとしての桜の美しさは理解ができる。桜の木の下に死体が埋まっているのはロマンティックだと思うし(その言葉を知って以来、桜の淡いピンクは死体の腐った血を吸った色だというわたし好みのファンタジーで克服してみようと思ったがだめだった)、桜味のお菓子やスタバの桜ラテも美味しくいただけるし、なんなら桜の時期にお花見が開かれて声をかけてもらったときにはしばしば参加して、なるべくまじまじと直視しないようにして想像上の桜を楽しむ。あくまで概念としての桜なら問題がなく、慈しむべき日本の花であるとも思う。けど、満開に咲き誇った桜の花、それ自体を、ある程度の近さから直接目にしてしまうと、あるいは写真でも近くから撮られたものだと、途端に無理になる。

    密集して咲く花すべてが苦手というわけではなく、本当に桜に限ってのことなので、その見た目やら造形に、何かしら絶妙に私の苦手なところを突くものがあるのだろう。

    ただ、本当に幼い頃は、そうではなかった。正確には覚えていないが、高校の頃、あるいは大学生になってからのような気もする。これは年齢的な問題なのだろうかと思い、毎年、今年は克服できただろうかと思って確認してみて、やはりだめだった、となり、どこかしらにそのことを記録している。今年はここに、やはり国を変えても無理であったということを書き留めておく。 

    *

     おまえ、この爛漫と咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像してみるがいい。何が俺をそんなに不安にしていたかがおまえには納得がいくだろう。

     馬のような屍体、犬猫のような屍体、そして人間のような屍体、屍体はみな腐爛して蛆が湧き、堪たまらなく臭い。それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている。桜の根は貪婪な蛸のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚めて、その液体を吸っている。

     何があんな花弁を作り、何があんな蕊しべを作っているのか、俺は毛根の吸いあげる水晶のような液が、静かな行列を作って、維管束のなかを夢のようにあがってゆくのが見えるようだ。

    梶井基次郎「桜の樹の下には」(1928)

  • 歩いていたらパサージュ・ジョフロワ(Passage Jouffroy)の文字が目に入り、吸い寄せられるように中に入った。ガイドツアー客の人たちの波の間を通り抜け、ぶらぶらと店を眺めながら南から北へ抜けると、大通りを挟んで向かい側に、もうひとつのパサージュ・ヴェルドー(Passage Verdeau)の入り口がある。

    パサージュの多くが18世紀末頃に作られ、19世紀前半にその最盛期を迎えたなかで、この二つのパサージュは1840年代後半とやや遅い時期にオープンし、ちょうど第二帝政期がその繁栄の全盛期だったよう。

    洗練されたシックなお店の立ち並ぶパサージュも魅力的ではあるけれど、古書店から流行のチョコレート屋、おもちゃ屋にアジアン・レストランまでごちゃっとした雑多で庶民的な雰囲気が心地好く感じられた。蝋人形で有名なグレヴァン・ミュージアムは、パサージュ・ジョフロワの代表的な観光スポットのひとつ。

    パサージュ・ヴェルドーで見つけた古本屋さんのウインドウ。

    お人形だ、と思って近寄ったら…

    左の壁に雑誌La Poupée modèleの付録のプレートが架かっていた! 嬉しい出逢い。

  • Madame Figaro, le 26 février

    同じフロアに住むマダムによく雑誌(とTVガイド)をお譲りいただくのだけれど、昨日もらったMadame Figaroに « Pourquoi les Japonaises sont-elles antiféministes ? (なぜ日本の女性はアンチ・フェミニストなのか?)» というなんとも扇情的なタイトルの記事が掲載されていた。執筆者はフランス人ジャーナリストで、日本での取材歴がとても長い方みたい。

    いろんな意味でしんどい記事だった。日本においていかにフェミニズムが成功していないか、発展途上であるかを政治、社会的に考察するもので、専門家と活動家の方々のコメントが引用されている。トピックとしては、国会議員や閣僚をはじめとして権力の座にある女性が往々にして反フェミであるということ(自民党、安倍元首相はかなり痛烈に批判されている)、日本人女性の労働条件と就業状況(一般職と総合職の区別とかも)、MeTooをはじめとするムーヴメントの不振、学校の性教育、リプロダクティヴ・ヘルス・ライツの遅れ、夫婦別姓問題など。

    基本的にはおっしゃる通りとしか言いようがないので、自国の絶望的な状況を外国語で再確認せねばならない、というのがしんどさのひとつ。まあそれは置いておいて、しかし紙幅の限られた記事だから仕方ないとはいえ現状分析としては相当に単純化されてしまっていること、これまで生じた運動やアクションとそれが生み出したポジティヴな効果についてほとんど取り上げられていないのが少し引っかかった。キャッチーな記事のタイトルが示すように(内容を読む限り、「日本人女性」を主語にするのはややミスリーディングではないかと思うが)、論調としては、欧米の現在のフェミニズムを基準として、日本の後進性をひたすらあげつらうというスタイルに、もやもやしたというのも否めない。

    検索したらWeb版にも会員限定記事としてアップロードされていて、コメントをチラッと見てみたら、「日本人女性がアンチ・フェミニストなのは彼女たちに思慮分別があるからだ」、的なコメントばかりであった。

    雑誌をくれたマダムはこの記事のところにわたし宛に付箋を貼って、色々勉強になったとメモしてくれていた。日本に興味を持ってくれて、知ってもらえることはとても嬉しいのだけれど、ね。