

素敵な言葉。偶然と必然、そのどちらにも本気で身を委ねて、双方のあいだを彷徨い続けながらこれからも生きていきたい、そう思わせてくれる展示でした。
渋谷は年を経るごとに耐え難い街になってゆく気がして、そう思ってしまう自分のこともなんとなく厭。でもヒカリエの上のほうの階から眺める景色は、いつもそれほど悪くないと感じる。


素敵な言葉。偶然と必然、そのどちらにも本気で身を委ねて、双方のあいだを彷徨い続けながらこれからも生きていきたい、そう思わせてくれる展示でした。
渋谷は年を経るごとに耐え難い街になってゆく気がして、そう思ってしまう自分のこともなんとなく厭。でもヒカリエの上のほうの階から眺める景色は、いつもそれほど悪くないと感じる。

前期の締めくくりの期末試験を終え、バスを降りたあとの凄まじい夕立でずぶ濡れになりつつ、埼玉県立近代美術館の「密やかな美 小村雪岱のすべて」へ。
七夕に、水を張った盥に映った夜空の星を覗き込む女性。
金子國義の所蔵であったらしく、《星祭り》と題されたこの作品に大いにほれ込んで、入手に奔走したという。
他にもいくつか、ひとりしゃがみ込んで何かをじっと見つめる女性や、背中に刺青を施されながら物憂げに虚空に目を遣る女性の絵があったけれども、
それらを眺めていると、昭和の鈴木春信とも称されていたという雪岱が描き出したのが、優美で嫋やかな女というより、たいへんに強い我と芯のある女であるという印象を受ける。
《星祭り》の近くには「挿絵のモデルー 個性なき女を描いて」という文章の抜粋があり、彼が好んで描きたいと思う女は、彼の内部にある心象を表したものであり、それに影響したものとして幼い頃に見たあるときの母親の表情とともに、京都で一度見た御所人形に触れられていた。その艶々しい顔が忘れられないという。
私は個性のない表情のなかにかすかな情感を現わしたいのです。それも人間が笑ったり泣いたりするのではなく仏様や人形が泣いたり、笑ったりするかすかな趣きを浮かび出させたいのです。これが私の念願です。
大正から昭和初期の文化を洗練された華やぎで彩り続けてきた雪岱は、1950年に脳溢血のため世を去る。深く敬愛し、その小説『日本橋』の装幀が彼のデビューの契機ともなった泉鏡花が亡くなった翌年のことだった。
54歳と未だ若くも、太平洋戦争の開戦を見ずに生を終えたことが彼のせめてもの幸運だったと言うことは許されるか、という展示の説明にあった問いかけが(うろ覚えですが)、胸に重たく響いた。



森英恵展にぎりぎり滑り込む。お洋服たちと生き様とその精力的な活動のすべてにたいへんな元気と刺激をもらった。
構成が本当にお見事で、まさに「ヴァイタル・タイプ」の体現者たる彼女の人生を追体験するかのように、すっかり没入しきってしまいました。


本日訪れ展示を見て講演会も聴いたのち、暗いもやもやが渦巻いておりまだ消化できておらず、それはいつかあまり近くない将来になんらかのかたちで、おそらくまったく別の文脈で、吐き出すことになるのかなと思う。
それを一旦於き、選定されて展示された物と文とに虚心で触れるなら、生涯を通し徹底して女性に寄り添い女性と向き合い続けた吉屋信子の言葉と姿勢には、やはり只々胸を打たれるばかりだった。
少女とは、女とは、少女と女にとって少女と女とは、少女と女にとってブンガクとは(その逆も)、漠然と大きすぎる問いばかりが浮かんできたけど、日本においてこれらを考えるうえで吉屋信子は決して外すことのできない存在なのだろうと感じます
──それは甘つたるいものである。
むやみと感傷的なものである。
こんな二つの大さつぱな観念で「少女小説」は片づけられている。まるで有害の毒々しい紅い染料を塗つたサッカリン入りのアメダマの如く考えられている。
(中略)
だが、大人の文学よりは、安易だろうから小遣かせぎに書こうと言っても成功しない、そうしたものは敏感な彼女たちにすぐボイコットされる。少女小説は才能というよりは、むしろ気質と運命のようなものの下にこそ書き得るものだと私は信じる。その気質とは少女の世界に深い愛情を持つことである。それは童話が子供への愛情なくして成功しないと同じように。
吉屋信子「少女小説」(『白いハンケチ』) 公式図録より
ところで、吉屋は中原淳一から「わすれなぐさ」の少女2人をモデルに彼の作った2体のお人形をもらっていたことを知った!







「お人形 なので表情はありません.笑ったり泣いたり させないでください」
#攻殻機動隊展 #原画ってすごいなぁ #『イノセンス』冒頭の『未来のイヴ』の一節は渡邊一夫訳でも齋藤磯雄訳でもなくミシェル・カルージュ『独身者機械』に引用された高山宏訳なんだって先生に教えてもらいました